28歳から40歳まで経営してみて

12年経営者をやってみた。まあ、実家の経営を引き継いだだけで、恰好の良いものでも無い事は自覚している。やってみると、「経営者は孤独」という言葉を噛みしめるような毎日だったように思う。地元の大学で経営学を専攻し、卒業。地元の地銀で5年ほど修行しようと考え、実際にそうした。誰でもそうだと思うが、実家の会社に入社するにあたって、財務資料などを見て入ったわけではない。なぜか、「自分ならどんな状況でもなんとかする」という謎の自信を携えて入社した。そして銀行員だったとしても財務の本質については、しばらく立たないとわからない事を実感したため、今考えても入社前に見ても意味はなかったと思う。(あくまで私が2流銀行員だったからだが)

入社して驚いたのは、社員たちが八時半ごろ出社してきて、夕方5時前に退社する事だった。4時30分ごろからタバコタイムが始まり、5時10分前には帰っていく。そんなに人数がいる会社ではない。社員5名アルバイト3名の会社だ。お米の卸売業であり、お米を玄米で仕入れ、自社設備で精米、それを配達メンバーが自社トラックで担当のレストランや食堂に配送していくというビジネスだ。入社した当時、東日本大震災によって仕入ポートフォリオで大きい比率を占める、福島産のお米が入荷できなくなった。それによって他の青森産や茨城産のお米の価格が高騰。恐ろしい話だが、その時会社では、効果的な「値上げのノウハウ」が存在しなかった。というようり、業界の競争が激しすぎて、他社も似たりよったりだったと思う。

 

そのため、入社してからみるみる財務状況は悪くなった。粗利の段階でマイナスが出るという絶対に儲からない状況。5キロ一袋の原価が1,500円。売値が1,480円。つまり一袋ごとに20円ずつ赤字となる。人件費はまるまる赤字となる。値上げの相談を配達メンバーと行うが、「取引先が離れる」という理由で抵抗される。そのまま赤字を重ね、入社一年目の決算は、赤字3,000万円という結果となった。

 

販路を増やすために、飛び込み営業を行った。営業ツールを自分で作成し、目標を作り、達成したら報奨金を出す仕組みを作った。自らも飛び込み営業を行った。営業記録簿を作り、週8件の努力目標を課した。特に効果はなかった。問題は2つあった。

 ①元々いた社員たちは、仕組みが無い「無法地帯状態」になれきっており、会社の仕組みや数字にコミットする意識がなかった事。

 ②私の作った仕組みが穴だらけだった事。

特に②を掘り下げていきたいが、まず一つ目の穴は、「目標値のハードルの低さ」だったと思う。まずは報奨金を受け取ってもらい→モチベーションアップ→報奨金という流れを作りたかったため、一番大事な「会社が重要視している実績と個人の目標値の接続」が甘かった。具体的には、会社としては、利益に貢献してくれる新規先を開拓してくる事が、「重要視している実績」に対し、個人の実績は前年度よりも配達量が増えているかどうかを「個人の目標」としてしまった。

そのため、実際に営業で新規先を取った実績が無い人が報奨金をゲットする事例が相次いだ。今なら①の問題は、②の仕組みを丁寧につくり、粘り強く運用していれば自然に解決していける問題だったと自信をもって言える。仕組みに適応するか、別の職場を探すかの2択になるからだ。今でも、自分に足りないのは仕組みを常に更新し、「絶対に守る・守らせる」という意識だと思う。